深江ってどんなまち?

 

古くから港もあり、漁業の町としても栄えていた深江のまち。海外からの文化や人材の交流も盛んで、実は当時から「異文化交流の町」としての顔を持っていました。

 

 

◎地形

深江は、神戸市東灘区のもっとも東に位置し、南は海に面しています。神戸市の東端で、芦屋市に隣接しています。

古くは東西に山陽道(西国街道)が分岐した西国浜街道。現在では鉄道(阪神電鉄)、高速道路(阪神高速3号神戸線および同5号湾岸線)、幹線道路(国道43号線)が通り、交通の動脈として機能している。
古くは東西に山陽道(西国街道)が分岐した西国浜街道。現在では鉄道(阪神電鉄)、高速道路(阪神高速3号神戸線および同5号湾岸線)、幹線道路(国道43号線)が通り、交通の動脈として機能している。

  ◎魚屋道(ととやみち)

大阪や神戸から有馬温泉につながる有馬街道といわれる3つの道、そのうちの一つを魚屋道(ととやみち)といいます。かつて、深江の浜ではいろいろな魚がとれました。魚屋が有馬温泉の宿に魚を降ろす際に魚屋道を利用したといわれています。現在では阪神電鉄深江駅の南側にある大日神社から西国浜街道と分岐しています。そして石碑が建てられており、魚屋道の成り立ちが記されています。昭和五十七年、深江財産区によって建立された碑は「有馬まで三里」の文字が刻まれており、道しるべとして使われていました。

 

歴史

・弥生時代 

 弥生時代から、人々はすでに深江で農耕生活を営んでいました。

 

室町時代 

 「深江村」が誕生しました。

 

・江戸時代 

 漁業と農業が発展した時代です。瀬戸内で捕れた魚を有馬まで運ぶ、魚屋道(ととやみち)が開かれ、大正時代まで機能していました。

 

・明治時代 

 阪神電車、阪急電車が開通しました。

 今でも、阪神沿線は庶民的、阪急沿線は山の手、というカラーがくっきり分かれています。ちなみに、深江は阪神の駅です!

 

・1910年代

 20世紀に入り、現在の深江南町一丁目から二丁目にかけて「深江文化村」と呼ばれる亡命ロシア人音楽家を中心とした外国人の居住区が形成されました。在日外国人コミュニティのひとつの「はしり」ですが、しかし、その独特の建築様式やライフスタイルも手伝って、地域住民と交流する機会はなかったそうです。

 

・1940年代

 第二次世界大戦では、隣接する青木(おおぎ)にある海軍指定工場を標的として幾度かの

 爆撃を受け、なかでも1945年の本庄村大空襲では甚大な被害を受けました。戦後復興の過

 程で神戸市との合併問題が持ち上がり、1950年10月、正式に東灘区の一部となりました。

 

・1963年 

 阪神間の物流の大動脈となる、国道43号線が開通しました。

 

・1970年 

  高度経済成長の時代となり、深江浜が埋め立てられて「神戸東部第四工区」が造成されるとそれまで盛んだった漁業は衰退し、1972年の漁協解散とともに実質的な終焉を迎えました。かわって食品製造加工業が発展し、主たる産業として現在に至ります。

 

・1990年

 1990年の出入国管理法改定に伴い、ブラジルなど南米出身の日系人が急増、深江でも外国人労働者の姿が見られはじめました。彼らの多くは派遣労働で夜勤のラインを担当しており、昼夜逆転の生活を送っています。

   

・1995年 

 日本の災害史上最大級の都市型災害である阪神・淡路大震災が発生しました。深江でも多くの住宅が損壊し、阪神高速道路が約1kmにわたって倒壊するなど、都市型災害に特徴的な被害がみられました。被災者の中には外国人も多く含まれ、これまで「近くにいるのに見えない存在」であった外国人住民の問題がクローズアップされる大きなきっかけになりました。復興の過程で地域コミュニティは再編され、多文化共生をめざすいくつかのNPOが発足、多言語での情報提供や相談対応、日本語学習などの分野で支援活動を開始しました。

 

 震災後からも外国人人口は増加傾向を続け、外国人の定住志向が強くなるとともに、復興支援から日常生活支援へと活動内容は変化しました。日本育ちの子どもの教育や進学の問題、医療や福祉の問題などが顕在化し、行政や教育機関などとの連携がこれまで以上に重要となりました。

 

・2008年

 リーマンショックで多くの非正規雇用外国人が帰国した時期です。しかし、深江地域は食品工業が主で、自動車産業を主とする東海地域のように景気の影響を大きく受けることなく、むしろ他地域からの流入人口が増えたと言われています。

 

・2015年

 阪神電車の芦屋~魚崎駅間の下り線が高架化され、慢性渋滞が少し緩和されました。

 新しくなった深江駅は、船をイメージした白い流線型の駅舎です。

 

 
 

産業

六甲山からの急激な川の流れを利用した水車を使う産業が発達し、菜種油を絞ったり、精米・酒造業・素麺造りなどが盛んになりました。中でも「灘目素麺」は、奈良の三輪素麺の技法を取り入れ、灘 地方で製造が始まったものです。現在の「揖保の糸」は、灘地方から伝えられた技法を改善されたものです。また、江戸時代は漁業も盛んで、『兵山県漁業慣行録』によれば、明治二十年頃で漁船数六十、漁民九十二人と漁業が盛んなところだったことが分かります。明治・大正・昭和初期と深江の漁業は栄えました。

 

 

◎阪神・淡路大震災

 阪神・淡路大震災によって40%以上の建物が倒壊し、阪神高速道路も倒れたことで、歴史的な建造物もほとんどなくなってしまいました。現在の住民の約6割が「震災後」の住民です。復興した今では、深江の歴史を多くの人に知ってもらおうと、さまざまな活動や行事が行なわれています。また深江北町には「阪神・淡路大震災 犠牲者慰霊碑」が作られました。犠牲になった人を偲ぶ碑を作ろうという意見が自治会で出たことがきっかけとなりました。

 

 ◎深江に住む人々

 深江での世帯数は12,481、人口は26,207人(2013年11月30日現在)で、1995年の阪神・淡路大震災直後に一時的に人口流出がみられましたが、2000年には震災前の数値に回復しています。震災後は高層住宅の建築ラッシュに伴い、他地域からの流入人口が増加、その結果小さなベビーブームがおこり「多子高齢化」の様相を呈しています。

 

 外国人人口は東灘区全体で4,928人(2012年12月末現在)、深江地域のみを抽出したデータはありませんが、第四工区の工場に勤務するいわゆる出稼ぎの外国人労働者向けの借り上げ賃貸住宅や、外国人留学生向けの住宅が存在することなどから、小規模な外国人集住がみられます。ある保育園では約100人の園児のうち、約1割が両親または片親が外国出身者とのことです。国籍・出身地域は、中国、ブラジル、フィリピン、韓国、インドネシア等多彩で、在留目的も出稼ぎ労働、留学、国際結婚など多岐にわたっています。特定の出身地別コミュニティが存在しないのが特徴で、このような地域は全国でも希少です。